子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
(論語)
冒頭から論語の引用なのでまさかメンドくさいブログかと思われるかもしれませんが、これについての解説やらウンチクやらは書きません。ググって本でもポチってください。
そして、これ声を大にしていうけどさ!蓮田古典を読み解くの趣味!すごいっしょ、立派でしょ。俺立派!
キャンプ:ゴルフ:釣り:古典
4:3:2.5:0.5
こんな感じだけど。。
しかしながら、蓮田40歳。
「四十にして惑わず」
これについては、2500年間くらいずっと読み語り継がれて来たワケですから時代によっては様々な解釈もあったでしょう。
「不惑」ではなくて本当は「不或」だったらしい、とか。
マドワズではなくてクギラズ。
本当はってなんだろ。。
四十になったら道理を明らかにして迷わない。
四十になっても自身の限界を定めずさらなる可能性を広げる。
どっちであっても中々立派なお言葉ですよ。道理って俺の解釈だと「自然の摂理」だと思っているので、つまり宇宙の真理みたいな事なんだろうと考えています。それが明らかになったらそりゃ迷わねぇよ、悟っちゃってんじゃん。俺からは遥か彼方にあるよね。
でも年々自分の色々な価値観が変化し続けているのは間違いないし、変化する前のものを否定もしないし間違っていたとも思わないけれど、確実に正しいと信じていたものが今は異なるなんて事よくあるワケです。
体育会だったし、そこそこ根性でスポーツやって来たし。体育大出身だし。
勝ち負けにこだわり。
負けるのは自分が弱いから。
努力出来ないのは根性がないから。
気合い入れろと言われて、ドM精神が揺るぎなく育ち。
先輩になり後輩に気合い入れろと言うようになり、ドS精神が確立した。
ドSMですね。
やはり心の深くには今もスポ根精神が宿り、職人気質な空気感(技は見て盗め的な)を好む感じはある。これは消えない。
でも、
負けを受け入れる事が出来て、
負けたのは方法論が違っていただけなので強い弱いではなく、
根性で踏ん張るのではなく楽しみ勇んで「する」だけ。
その「する」と言う行為、行動には時に「苦しい」事だってあるけどもそれも方法を変えて挑戦すれば良いだけなんだと思っている。
前の思考も今の思考もどちらも正しいと思ってる。
ここよく行く定食屋なんだけれども、美味い。調理場ではそこそこ若手が長らしき職人さんにどやされていて、何を言われても「はい!」と返事して頑張っている姿にかつてのソレを重ねて見たりして、気合い入れてお代わりにご飯の大盛り頼んだら、さすが気合い入った本気の大盛りが来た。(笑)
正確には前の考え方もかつては「正しかった」になるのかな。
否定したり押し付けたり、つまり気合い入れさせて努力させてと言う論法から何か生まれる事も沢山あるのだろうけれど、否定せず押し付けずにいたのがよほど多くのものが生まれる事を知った。
だから演劇業界等で当たり前の概念になっている「ダメ出し」と言う言葉がクソほど嫌いだ。実際クソのが体から余計なものを排出してくれるし肥料になるし価値があるじゃないか、、隠喩なんだから真面目に比較する事じゃないけど。。
もちろん監督や演出家にはジャッジをしてもらいたい。お客様の目に触れるまでは監督、演出家を信頼するのだから。
つまり言い方とかそれに対する概念の問題だ。「駄目」って囲碁の言葉です。
そもそもの意味から転じて「価値がない」みたいな意味を含むと思うのだけれども「人に対して価値がない」と言うネガティブな意味の言葉を使って表現や何か「モノ・コト」を生み出そうとすることは、体育会のかつてのソレと同じ事なんじゃないかと思う。
「思う」ことと「する」ことは大きな違いがあるでしょう。
男性女性関わらず痩せたいって思っている人は沢山いるんですよ、かく言う俺もそうなんです。痩せたいって思っているのは本当なんです。
でも人はランチに最高の脂滴るどデカイさばの炭火焼定食に外サク中ジュワの唐揚げを追加注文しご飯の大盛りをお代わりして恍惚とした表情で「美味い」と今日も飯を頬張るワケです。
ソレはソレで健康的ではあるんだけれども、
痩せはしねーんだよ。。
痩せたいと本当に「思っている」ことと、
痩せるための行為、行動を「する」ことは違うワケです。
なるほど、それでは道理で痩せないワケです。
自然の摂理、宇宙の真理なんだから。
道理が、、
これが明らかになっ、、
あ
悟った。
四十にして
惑わず
四十にして、心と共に腹回りも広がり包容力が増すワケです。
そういえば昨今の解釈では
限界を定めずにさらなる、、、、
だっけか。
肯定しよう。
仕事終わって楽しみ勇んで早くビールが飲みたい。
駄目ってあまりいい言葉じゃないのだから。
押し付けはよくない。
確実に正しいと思っていた体形も今は異なる。
どっちも、、、。
蓮田キト